【前編】米本拓司と共に歩んだ紆余曲折な道のり
「J1 通算200試合出場達成」
その道のりは決して平坦ではなかった。かと言って一概に絶望的とも片付けられない。そうした言葉1つでは到底表せないのが、その姿を近くで見てきた我々の本音であるだろう。
・
・
彼が最初にFC東京のユニフォームに袖を通したのは2009年のこと。兵庫県の強豪・伊丹高校から期待の高卒ルーキーとして迎え入れたクラブの中で獲得を熱望したのは当時の指揮官・城福浩氏であった。実は米本が高校1年生の時に兵庫県選抜メンバーとして出場した国民体育大会を視察していたのが城福氏だった。
U-16日本代表という育成カテゴリーの監督を務めていた城福氏は別の選手をお目当てに視察に訪れていたが、そこで輝きを放っていた米本の才能を評価。同年のU-16日本代表に選出されるなど人生を変える出会いとなった。「こんなに上手いやつらがいるのか、と驚くと同時に、こいつらとやったら絶対に上手くなれる」と初めてプロを意識するきっかけをナショナルチームから受けたという。その後もU-17ワールドカップにチーム最年少で選出されるなど、プロの世界への航路がより明確になったこともありメンタル面や技術面が著しく成長。
その甲斐あって高校3年生時にはヴィッセル神戸に強化指定選手として登録され、更に米本の恩師が監督に就任したFC東京への練習にも参加。競合となった末に最後は本人が青赤のユニフォームを手に取った。この決断を自身がこう振り返っている。
「高校3年生のときは、ヴィッセル神戸の強化指定選手だったので、どっちに行くかすごく悩みました。顧問の先生にも『人生の分岐点だから、悩めるだけ悩め』と言われて、1か月くらい、どうしようか迷っていましたね。神戸も出身地のクラブでしたし。でも、最終的にどっちがうまくなれるかということを考えました。監督がU-17日本代表の監督だった城福さんだったのが、最大の理由でしたね。自分のことを知っている監督のいるところに行った方が伸びるんじゃないかと思ったんです。中盤に自分と似たタイプの選手であるサリさん(浅利悟)や良い守備の選手もいたので、FC東京に行った方が、より学べるかなと」。
ルーキーイヤーとなった2009年、序盤こそは苦戦するも梶山陽平とコンビを組んだ中盤起用が当たり9節の大宮戦からスタメンに定着する。
「身体能力が低かったから、考えてボールを奪うようになったと思うんです。もし、身体能力が高ければ、そんなに考えなくてもボールを取れたはずです。でも、僕はフィジカルで当たるよりも、足を伸ばしてチョンと触ってマイボールにしたり、駆け引きをして相手に当たらないように先にインターセプトしたりしていました。フィジカルが弱かったから、考えたんでしょうね。」
そう本人が語る通り、中学・高校時代から養われてきた最大の持ち味である守備力でチームに欠かせぬ地位を確立。
最大のハイライトはナビスコ杯(現ルヴァン杯)だろう。予選リーグから8試合に出場し3得点の成績で貢献。決勝に駒を進めた東京は宿敵・川崎フロンターレを相手に米本の強烈なミドルシュートで先制する。そのも平山相太の得点で川崎を圧倒した東京は2004年以来、5年振りとなるタイトル獲得。異色の輝きを放った米本は同大会のニューヒーロー賞とMVPをダブル受賞し当時の岡田武史日本代表監督から賞賛を受ける。
12月の国内組中心で臨むアジアカップ予選イエメン戦で代表初選出されると早速先発デビューしチームの逆転勝利に大きく尽力。
鮮烈なルーキーイヤーを過ごし迎えた翌年のプレシーズン。これからの彼を幾度となく襲う"あの怪我"に苦しめられることになる。小平グランドでの練習中に負傷し、左膝前十字靱帯損傷および左膝外側半月板損傷と診断され戦線離脱。結局、ワールドカップメンバー入りはおろかJ1リーグ戦も大半を欠場し懸命にリハビリを努めることに専念。同じ箇所を痛めた先輩の石川直宏らに助言を受けながら、決して折れることなくリハビリをこなす。
10月下旬にようやく復帰し先発に返り咲く。だが、ここまでの間には下位低迷の引責で米本の信頼していた城福監督が途中解任され、大熊清新監督が就任するなどチーム状況は混乱。米本が復帰してからは3勝2分2敗と勝ち越すも最終順位は16位でクラブ史上初めてのJ2降格。
翌年をJ2リーグで戦うこととなるがチームに残留。そして新たに「攻撃力の強化」を目標に掲げ高い意識でシーズンに臨む。
ロンドン五輪を目指すU-22日本代表のメンバーに選出されるなど順調なシーズン幕開けを迎えるも試練が待っていた。
4月24日のジェフユナイテッド千葉戦で再び前十字靭帯断裂の負傷。結局はJ2リーグ1試合出場に留まり、1年間絶望。繰り返された悪夢に酷く落胆したが、多くの人々に支えられてリハビリに挑む。チームは米本を来季J1で迎えるべく奮闘し、長丁場のJ2に苦しみながらも初のJ2制覇。1年でのJ1復帰が決定した。
そして2012年の開幕直後に復帰。
「1年目の2009年のときと比べたら、運動量のところでまだまだ物足りない。寄せの部分ではだいぶ戻ってきたなというのはあるけど、もっと行けるんじゃないか、と。でも昔は昔で、今は今。昔を見すぎるのはよくないし、筋トレして体重も増えて体も違ってきている。昔みたいにガムシャラに行き過ぎてしまわずに、気持ちでセーブできるようになったのは成長したところなのかもしれません。自分は膝のケガを2回やっているし、やっぱり今年の目標はケガをしないで1年やり通すということ。そこは肝に銘じておきたい。そのなかで自分のプレーを出していければいいと思っています」。
同年7月、ロンドン五輪本選に臨むメンバー入りを目指し何とかバックアップメンバーの4名に食い込む。1年間のブランクを感じさせない前半戦のプレーぶりを関塚隆監督が高く評価しての選出。本選でのメンバー入りは叶わなかったが、現地まで帯同し直前の強化試合に出場するなど自身の役割に徹した。
後編へ。
0コメント